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東京地方裁判所 昭和41年(ワ)8922号 判決

原告(反訴被告) 久村諦道

右訴訟代理人弁護士 内藤文質

被告(反訴原告) 山口貞雄

右訴訟代理人弁護士 源光信

主文

原告の請求及び反訴原告の反訴請求は、いずれも棄却する。

本訴訴訟費用は、原告の負担とし、反訴訴訟費用は反訴原告の負担とする。

事実

原告(反訴被告。以下「原告」という。)訴訟代理人は、本訴につき

「一 被告は、原告に対し、東京、大阪、名古屋及び小倉において発行され、朝日新聞、毎日新聞及び読売新聞の各題号を有する日刊新聞紙の各朝刊社会面の第一四段及び第一五段の二段抜きで、左右は、各一センチメートルあき、天地は、それぞれ五ミリメートル及び三ミリメートルあきとし、見出しは、『謝罪』の二字を二号活字で、字間は、二号全角あき、次行との間は、二号全角あき、被告の氏名・肩書及び原告の氏名・肩書は、それぞれ三号ゴシック活字、被告の『文学博士』の肩書と氏名との字間は、同活字全角あき、その行間は、同活字半角あき、本文及び日付は、九ポ活字、行間は、同活字半角あき、として、別紙(一)記載の文案の広告をせよ。

二 訴訟費用は被告の負担とする。」

との判決を求め、その請求原因を次のとおり述べた。

一  原被告の身分関係及び柿沼尼の生活歴等

(一)  原告は、日蓮宗鎌倉松葉ヶ谷長勝寺(以下「長勝寺」という)の住職(日蓮宗大本山京都木圀寺旧跡第五四代目)で、布教活動の中枢ともいうべき重責を荷い、信徒は、全国にあまねくその数一万人余りを有する。

被告(反訴原告。以下「被告」という。)は、文学博士の称号を有し、最近まで東京学芸大学教授の地位にあった。

(二)  昭和四一年一月二日に、法名妙匡院日宝法尼(俗名柿沼きく、以下「柿沼尼」という。)が身延山丈六堂において脳卒中のため、五六才で他界した。

(三)  被告は、昭和一四年、当時治療困難な精神病を患っていた柿沼尼を片山日幹上人に紹介し、同上人を通じ、当時の長勝寺住職であり原告の恩師であった高橋海定師に同尼の保護監護を委託したが、原告はその頃長勝寺の執事でありその立場上爾来一〇余年の長きにわたり苦心の末同尼の監護教導に携って本復を祈り、その甲斐あって昭和二一年ようやく同尼が回復したので、原告があっせんして高橋海定師の手で同尼を剃髪得度させた。

昭和二六年三月、原告は、同尼を抜てきして原告の坊守である箱根地蔵堂に原告の代理として入寺させ、それから一三年余の間、同尼は原告の庇護の下に箱根地蔵堂庵主と呼ばれ心身共に安楽に過ごしてきたが、同尼は昭和三九年秋箱根地蔵堂を退山した。

二  被告の行為―追悼文発表の事実とその内容

(一)  柿沼尼の死後、被告は、「鳴呼『妙匡尼』」と題する同尼の追悼文(以下「本件追悼文」という。)を執筆し(その内容は、甲第一号証一〇頁から一二頁までの被告執筆部分記載のとおりである)、これを日蓮宗尼僧法団(以下「尼僧法団」という。)本部発行の同団機関紙「さんげ」誌創刊第一号(以下「本件『さんげ』誌」という。)に掲載せしめて発表した。本件「さんげ」誌の発行部数は二、〇〇〇部であり、その頒布先は日蓮宗身延山派の寺院及びその関係団体に所属する人々である。

(二)  右追悼文の要旨は、

「筆者がここでとりあげようとしているのは、彼女の直接の死因ではなくて、その遠因となる彼女の『乱れ』についてである。彼女の『乱れ』は、昭和三九年秋、彼女が生命を賭して二〇数年も守り育てて来た箱根地蔵堂に、突然、小笠原、桜両氏が入寺し、師の坊の特別待遇を受けることにより、彼女の居るべき場所を奪われ、同寺を風呂敷包み数個の財しかない状態で追い出されて、住むに家なき漂泊の身となったことに起因する。」

というのである。

三  右追悼文発表が原告の利益を害した違法なものであること。

(一)  右追悼文は、原告を特定して非難したものである。即ち右追悼文には直接原告の氏名は記載されていないが、本件「さんげ」誌中の右追悼文の直前に掲載された「柿沼妙匡上人歎徳文」では、「……遂ニ昭和一八年鎌倉長勝寺高橋海定上人ニ就テ得度シ更ニ現董久村諦道上人ノ会下ニ入リ修徒トシテ居ルコト十余年ノ永キニ及ベリ」と記載されているから右記事と前記のような原告と同尼との関係とを総合して判断すれば、同尼をほとんど無一物の状態で追い出したのが原告であることは十分指摘しうるところであった。

(二)  右追悼文の内容は、特に、次の諸点に於て真実に反することは、後に述べるとおりである。

1  彼女が、小笠原、桜両氏のために居るべき場所を奪われたこと。

2  彼女がそのため箱根地蔵堂を風呂敷包み数個の財しか所有しない状態で追い出されたこと。

3  彼女が同寺を二〇数年間生命を賭して守り育ててきたこと。

ところで、もし原告がこのように無慈悲な行為をしたと非難されれば、原告の信用は失墜するものであり、事実無根であるのにこのような非難を社会的に行うことは、原告の利益を害し、違法である。

(三)  柿沼尼が、箱根地蔵堂に入寺したのが、昭和二六年三月であり、同尼の精神状態が必ずしも十分でなかったことは、先に述べたとおりであるから、同尼が「箱根地蔵堂を二〇数年間生命を賭して守り育ててきた」という表現が誇張であることは明らかであり、又、同寺を退山した真の理由は次のとおりである。

箱根地蔵堂に入寺した後、柿沼尼は尼僧法団に入団し、その幹事を引受け、対外的な交際がつのるにつれて、地蔵尊への奉仕も疎略になり、身心の疲労も激しく、精神病の再発の傾向さえうかがえるようになった。ところが、その頃たまたま箱根地蔵堂に桜緋紗子(以下「桜」という。)小笠原みつ子(以下「小笠原」という。)両名が一時寄宿したことがあったが、柿沼尼は一人合点して右両名のために自分の立場が失われるのではないかと妄想し、突如原告に退山を申し出たので、原告が同尼に対し、右両名の寄宿は短時日に過ぎず、同尼の地蔵堂庵主たる地位は牢固で犯しえない等懇諭したところ、一時は翻意しながら、片山日幹上人を煩して病気静養を理由に自ら退山を強行したのである。そして、同尼は、退山時に貯蓄もあり、トラック一台分の財産をもって去った。

四  被告の故意又は過失

いやしくも他人を誹謗するようなおそれのある記述を公開誌上の投稿掲載するにあたっては、予めその人の弁明を聞き、その他客観的資料を蒐集するなど周到な注意を払うべき義務があるのに、被告が、柿沼尼側から一方的に伝聞した事実のみに基いて前述のような原告を誹謗しその社会的地位を失墜せしめる一文を本件「さんげ」誌上に投稿掲載したことは、故意又は過失により原告の名誉信用を毀損したものといわなければならない。

五  原告の損害

被告は、文学博士の称号を持ち、大学教授の地位にあるだけに、その記事が日蓮宗門下、宗教界全般及び有縁の一般人士に与える影響力は強大である。仮に、原告が無暴無慈悲にも弟子分にあたる者を追放し、住むに家なく喰うに食なき状態に陥し入れるような行為をしたとすれば、全国にわたる檀家信徒はいうに及ばず、有縁の一般人士の信用を失墜し、人心済度の本務遂行は全く不可能となり、その社会的生命を失うことは、目に見えている。

被告が本件「さんげ」誌上に事実に反して前記のような一文を発表したことは、原告の職責上求められる右のような社会的評価を著しく傷つけたものである。

六  よって、原告は被告に対し、原告の名誉を回復するのに適当な処分として、本訴請求の趣旨記載のとおりの謝罪広告を求める。

被告訴訟代理人は、本訴につき「原告の請求を棄却する、訴訟費用は原告の負担とする」との判決を求め、答弁として次のように述べた。

本訴請求原因第一項中、柿沼尼が精神病を患っていたとの点は否認する、当時彼女はノイローゼ又は霊媒にすぎなかった。得度したのは昭和一八年で、病気回復が原因ではなく、同尼の母が死亡して得度に反対する者がいなくなったためであった。その余の事実は認める。

同第二項の(一)の事実は認める。但し、本件「さんげ」誌は非売品であり、その頒布された部数は約七〇〇部であった。同第二項の(二)の事実は否認する。本件追悼文の趣旨は、柿沼尼の死の遠因は同尼の「乱れ」にあり、その「乱れ」は、桜、小笠原両氏が地蔵堂に入寺したことに関係があること、そして、右両名の入寺に当りその前任者たる柿沼尼の納得のもとに同尼を栄転させ或いは安心できる将来の生活の道を講じてやれなかったか、同尼の死はあまりにも惨めである、というにある。即ち、同尼の死の当時の惨めな状態又は一般尼僧の地位の低さ軽さに対する公憤を述べたものである。又、本件追悼文は、被告が昭和四一年に身延山に柿沼尼の葬儀のため行った時の財産状態を述べたもので、退山時の財産状態には触れていない。

同第三項の(一)の事実中、本件追悼文上には直接原告の氏名が記載されていないこと、本件追悼文の直前に原告主張の記事が掲載されていることは認め、その余の事実は否認する。本件追悼文投稿の際、被告は同一誌上に前記「柿沼妙匡上人歎徳文」が掲載されることやその内容を知らなかったものであり、また、柿沼尼退山の理由についても、原告が積極的に「追い出した」などと本件追悼文に記載したものではなく、むしろ、桜、小笠原両氏の入寺によって間接的に「追い出され」る結果になったという意味の記載をしたものである。

そもそも、トラブルの原因は予め柿沼尼の納得を得なかった点にあり、被告の執筆の趣旨は、尼僧法団の目的に沿って一般尼僧の地位の低さについて述べ、人権擁護をはかるとともに同法団の結束を促そうとするもので、原告を非難しようとする趣旨のものではなかった。

同第三項の(二)の事実中、本件追悼文の内容が三点において全く真実に反するとの点は否認し、その余の事実は認める。同(三)の事実中、桜、小笠原両氏が箱根地蔵堂に入寺したことは認め、右両氏の寄宿が一時的であったとの事実は否認し、柿沼尼退山のいきさつに関するその余の事実は知らない。桜は雑誌「大法輪」(昭和四〇年九月号)で「昭和四〇年仏門に入り日輪寺(箱根地蔵堂のこと)を住寺とする」旨述べる等しており、右両名の箱根地蔵堂への寄宿が短期間であったとはいえない。したがって、柿沼尼は、小笠原、桜両氏が入寺したために、居るべき場所がなかったはずである。

同第四項の事実中、被告が原告主張の注意義務を負うことは認めるが、その余の事実は否認する。

同第五項の事実中、被告が原告の社会的評価を著しく傷つけたとの点は否認し、その余の事実は認める。被告の信用失墜に関する主張には誇張があり、又頒布部数からいって影響はさほど大きくない。

さらに、被告訴訟代理人は、抗弁として次のように述べた。

仮に、本件追悼文の発表が原告の名誉を毀損したとしてもその流布の範囲は狭かったから、それによる原告の社会的地位信用の低下の度合は、量的には少なかったところ、原告は新聞「宗門改造」(昭和四一年八月一五日発行)に本件追悼文の一部を紹介しつつ「柿沼妙定尼の急逝を悼み冥福を祈りつつ山口貞雄氏に一文を呈す」と題してこれに反論を加えたものである(以下「本件反論文」という。)が、右「宗門改造」は発行部数も相当多く全国的に頒布購読されている宗門内の有力新聞紙であり、原告の右投稿は、自らを弁護するためとはいえ、いたずらに事を大にし好んで社会的地位や信用の低下を過大に流布する結果となったものであり、原告自らの行為によって生じた結果については、被告は、責任を負わず、原告の本訴請求はその限りで失当である。

原告訴訟代理人は、抗弁事実中、原告が被告主張の新聞紙に被告主張の論文を発表したこと、同新聞紙が宗門内の有力な新聞紙であることを認め、その余の事実を否認し、責任の帰属については争うと述べた。

次いで、被告訴訟代理人は、反訴につき、

「一 反訴被告は、反訴原告に対して東京都において発行され朝日新聞、毎日新聞及び読売新聞なる各題号を有する日刊新聞紙の各朝刊社会面一四段及び宗門改造社発行『宗門改造』第一頁の八段に各表題を二号活字、本文を四号活字、氏名宛名を三号活字として別紙(二)記載の文案の謝罪広告をせよ。

二 訴訟費用は反訴被告の負担とする。」との判決及び仮執行の宣言を求め、その請求原因を次のとおり述べた。

一  原被告の身分関係

本訴請求原因第一項の(一)記載のとおりであり、被告は教育者であるとともに学徒であって、その品性、徳行、信用等を重んずべき立場にあり、教え子及び知己は、全国で一万人を下らない。

二  原告の行為―反論発表の事実とその内容

(一)  原告は前記のように本件反論文を前記第一七〇号「宗門改造」紙に署名入りで発表した(その内容は乙第一号証記載のとおりである)。同紙は発行部数が三〇〇〇部以上とも一万部以上ともいわれ、宗門界の有力紙で全国的に頒布購読されている。

(二)  右反論文には、被告を名指しした次のような記載がある。

1  同紙五頁五段目、被告に対し原告との公場対決を提唱し、「詭弁を 口弄して逃げ隠れなさらぬよう念告申しおきます」……「まして況んや事実の調査確認もせず他を陥れるが如き言動は書くものも書く者、掲載する者も又然り、非常識極まる言行は悪魔の所為と断ず」

2  同紙五頁六段目「恰も正常人を最初から尼僧にするために依託されたが如き表現で偽証も甚しい次第です」

3  同紙五頁七行目、「貴台の言わるる教えを説く仏教界が一人の者を幸福にするためには他の者を不幸に陥れてもよい筈がないとの言葉は無責任極まる放言を以って一人の僧侶を社会から葬ろうとする低劣な根性の持主、貴台にそのままお返し致します」

4  同頁同行、「学問(信仰も教養もおありにならないのは仕方がないとしても)の権威者が片聞のみで即断し……貴台の言い分を読むと小生が間接的に妙定尼(柿沼尼のこと)を殺したように思われます」

5  同紙六頁二段目、「貴台は何んと言う恐ろしい方なのでしょう。殺人の大罪は大罪中の大罪、ましてや師匠と弟子と申せば近親友人以上の極重罪……貴台の文中の論述は明らかに小生が妙定尼を追い出し住むに家なき浮浪の徒たらしめ、遂に間接的な殺人罪を犯せしものと断定しておりますが……」

6  同紙六頁六段目、「全くの言いがかり三百代言的難癖としか思われません。」

三  原告の行為の違法性

本件反論文の右1から6までの各記載は大学教授としての被告をあまりにも一方的独断のもとに侮辱し、被告の品性、徳行、信用を著しく中傷して社会的評価を極度に低下させるものであって、これを同紙に発表したことは違法である。

四  原告の故意

原告は本件追悼文の掲載により原告の名誉が傷つけられたと誤信し、故意に本件反論文を掲載させたものである。

五  被告の損害

本件反論文の掲載により前述した社会的地位にある被告の名誉は著しく毀損され、社会的評価は低下した。

六  よって、被告は原告に対し、被告の名誉を回復するのに適当な処分として、反訴請求の趣旨記載のとおりの謝罪広告を求める。

原告訴訟代理人は、反訴につき、「反訴請求を棄却する、反訴訴訟費用は被告の負担とする」との判決を求め、答弁として、反訴請求原因事実中、第一項及び第二項の事実は認める、(もっとも「宗門改造」紙の発行部数は知らない。)第三項から第五項までの事実は否認する、本件反論文中の被告指摘の各記載は、被告が本件追悼文において原告に加えた中傷に対する常識的な評価と反ばくに過ぎず、これによって被告の社会的評価を低下させたとは解しえない、と述べた。

≪証拠関係省略≫

理由

一  原被告の身分関係及び柿沼尼の生活歴等

原告は、長勝寺住職として布教活動の中枢ともいうべき重責を荷い、信徒は全国にあまねくその数一万人余に達すること、被告は、文学博士の称号を有し、最近まで東京学芸大学教授の地位にあり、教え子及び知己は一万人を下らないこと、被告は、昭和一四年、当時少くとも多少精神に障害があった柿沼尼を片山日幹上人に紹介し、同上人を通じて高橋海定師に委託し、その時以来原告は同尼の監護教導に携わり、終戦の前後頃同尼を剃髪得度させたこと、同尼は、昭和二六年三月から箱根地蔵堂に原告の代理として入寺し、以後一三年余の間、原告の庇護の下に箱根地蔵堂庵主と呼ばれ心身共に安楽に過ごしてきたこと、同尼が昭和三九年秋頃箱根地蔵堂を退山し昭和四一年一月二日身延山の丈六堂で脳卒中のため死亡したことは、いずれも当事者間に争いがない。

≪証拠省略≫を総合すれば、同尼は、長勝寺に入寺した頃、お経をあげている僧侶に突然抱きついたりしたこと、また、入寺前、度々蛇が室内にいるものと錯覚し蛇の真似をしたことが認められ、右認定を覆すにたりる証拠はない。

二  被告の行為等について

被告が、柿沼尼の死後原告主張の追悼文を執筆し、これを本件「さんげ」誌に掲載させて発表したこと、原告の氏名は明示されていないこと、同誌の頒布先は日蓮宗身延山派の寺院及びその関係団体に所属する人々であることは、いずれも当事者間に争いがない。

また、≪証拠省略≫によれば、同誌の発行部数は一〇〇〇部であり頒布された部数は約七〇〇部であった事実が認められ、右認定を覆えすにたりる証拠はない。

三  本件追悼文の内容について

≪証拠省略≫によれば、本件追悼文は前半部分において主に柿沼尼の「乱れ」の原因ないし死亡時のみじめな状態に関連したことについて述べ、後半部分においては主に同尼が箱根地蔵堂退山後に身を寄せた片山日幹師と尼僧法団に感謝し、尼僧法団が尼僧の地位向上に貢献するだろうということ等を述べたものであること、本件で問題となった前半部分においては、

①  しかし、筆者がここにとりあげようとしているのは、この直接の原因ではなくて、その遠因となった彼女の「乱れ」についてである。彼女の「乱れ」は昭和三十九年の秋彼女が生命を賭して二十数年も守り、育ててきた箱根地蔵堂に、突然、小笠原、桜両氏が入寺しようとしてきた時にはじまっている。全く自分の支配下のものと思っていた寺内に、これらの両人が入り込み、師の坊の特別待遇を受けては、何と言っても彼女の居るべき場所がなかった筈である。

彼女は驚愕し、悲嘆にくれ、そして遂に乱れはじめ、意を決して芦の湖に入水さえも企てたようである。

②  ただ筆者が言いたいことは、なぜその時前任者であった妙匡尼を栄転させなかったかと言うことである。

③  筆者が彼女の死処となった身延を誘(原文のまま)れた時、彼女は全く風呂敷包み数個の財しか所有せず。二十数年自分が育ててきた寺を追い出されて、住むに家なき漂泊の身であった。これが二十数年間寺に捧げた努力の報酬としては、あまりにも惨めである。

④  その二十数年の努力の結果がこうであっては当然紹介者としての責任上、これはどうしたことかとおたずねするのは当然である筈である。

本紙を通じて答えていただくことが困難であれば、私信でもよい。是非ともこの辺の事情が知りたい。

などの記載があることが認められ、右認定を覆すにたりる証拠はない。

四  本件追悼文執筆のいきさつと原告との関連について

「さんげ」誌上本件追悼文の直前に、柿沼尼が原告の「会下ニ入リ修徒トシテ居ルコト十余年ノ永キニ及ベリ」として原告の氏名を明示した身延山法要部長大善坊住職長谷川寛慶和南の「柿沼妙匡上人歎徳文」が掲載されていることは当事者間に争いがない。

≪証拠省略≫を総合すれば柿沼尼の葬儀の際に被告が本件追悼文とほぼ同旨の追悼演説をしたところ、尼僧法団所属の梶山智弘らが感激して「さんげ」誌への執筆を依頼し、被告もこれを了承して本件追悼文を執筆したこと、被告はその際、本件「さんげ」誌に右「柿沼妙匡上人歎徳文」が掲載されることやその内容については全く知らなかったことしたがって右歎徳文と本件追悼文と併せ読むと原告がうかびでることは想像もしなかったこと、及び本件「さんげ」誌発刊後、原告から非難の声が出たため、その後は尼僧法団側において同誌の頒布を差し止めたことが認められ、右認定を覆すにたりる証拠はない。

また、≪証拠省略≫を総合すれば、被告は、本件追悼文執筆当時原告の氏名を知らず、執筆にあたって原告と面談して事実を調査することをしなかった事実が認められ、右認定を覆すにたりる証拠はない。

五  本件追悼文の記載内容の真実性について

(一)  柿沼尼が小笠原、桜両氏のために居るべき場所を奪われたとの点について

1  ≪証拠省略≫を総合すれば、柿沼尼退山の数年ないし一〇数年前、旧華族出身の小笠原が尼僧となり原告の後援のもとで活躍し、その後、たまたま交通事故に遭遇して救い求めに長勝寺に行った桜と出会い、(桜も昭和四〇年五月三〇日有名人等参列のもと原告の導引で盛大に得度式をあげた。同女は、その後小笠原法住と称した)、まもなく小笠原、桜両名が箱根地蔵堂に入寺したものであるところ、原告としては、当時たまたま空席のあった村雲御所の門跡に小笠原を推せんして運動し、実際に右入寺の約三ヵ月後に同女は村雲法尼の跡継きとなり、桜も小笠原と同じ寺にいること、原告としては、そのような事情もあり右両名の箱根地蔵堂への寄宿は早くて一、二ヵ月、長くとも一年以内の短期間のものと考えていたこと、右両名は、実際に地蔵堂の経営には一切タッチせず、通常使用していない部屋に住み、生活も全く地蔵堂奉仕者とは別であったことが認められ、右認定を覆すにたりる証拠はない。

2  ≪証拠省略≫を総合すれば、柿沼尼は、箱根地蔵堂退山の直前、小笠原、桜両名のためにその地位を奪われるのではないかと心配したため、原告は、柿沼尼に対し、右両名の滞在は短期間で生活も別であり同尼の地位をおびやかすものではない旨説明したが、同尼が安心するには至らなかった事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(二)  柿沼尼の財産状態について

1  ≪証拠省略≫を総合すれば、同尼は退山時少くない家財道具をトラックに積んで身延山に送った事実が認められ、右認定を覆すにたりる証拠はない。

2  ≪証拠省略≫を総合すれば、柿沼尼の死後同尼の親族が同尼の主な荷物を引き取ったため、同尼の財産としては残りの家財道具と風呂敷包み五、六個しかなく、しかも、葬儀のため被告が丈六堂を訪れた際には右風呂敷包みのみが目にとまり、被告が西島蓮皎からこれが同尼の全財産であると誤まり聞いたため、被告がその旨誤信して前記③の記載をなすに至った事実が認められ、右認定を覆すにたりる証拠はない。

六  原告の損害

≪証拠省略≫によれば、本件追悼文の発表によって、原告は精神的に傷つけられ布教活動に対する意欲も減殺された事実が認められ、右認定を覆すにたりる証拠はない。

七  本件反論文の発表

原告が本件追悼文に対し、宗門内の有力な新聞である「宗門改造」(昭和四一年八月一五日発行)に、その要旨を紹介しつつその誤りを指摘し、本件反論文をもって反論したことは、当事者間に争いがなく、≪証拠省略≫によれば、同日付の同新聞の発行部数が一五〇〇部ないし三〇〇〇部である事実が認められ、右認定を覆すにたりる証拠はない。

八  本件追悼文発表に関する総合的な判断

以上認定した事実によれば、

(一)  本件追悼文は、客観的に見れば、柿沼尼の後見的立場にあった原告に対する非難を含み、特に、前記三の④の部分において柿沼尼の惨めな状態について関係者の弁明を求めたことから、同尼の後見的立場にあった者の責任が注目されるのは当然のことであり、その対象となった原告の氏名も前記「柿沼妙匡上人歎徳文」の記載と相まって読者その他の関係者に容易に推測でき、

(二)  内容的にみれば、

1  原告主張の「彼女が小笠原、桜両氏のために居るべき場所を奪われた」との点については、これとほぼ同旨の前記三の①の記載があり、右記載は、右両名の箱根地蔵堂への滞在が一時的であったこと等からみて不正確な表現を含み、

2  原告主張の「彼女がそのため箱根地蔵堂を風呂敷包み数個の財しか所有しない状態で追い出された」との点については、前記三の③の記載があり、ここで明示してあるように本件追悼文は柿沼尼死亡時の財産状態について述べたものであるから、この点についての原告の主張はそのまま採用しがたいものであるが、退山後二年に満たない死亡時の財産状態から退山時の財産状態を推定することも稀ではないところ、同尼の財産状態は前記三の③記載の程度ほど惨めでなかったことが明らかであり、

3  原告主張の「彼女が同寺を二〇数年間生命を賭して守り育ててきた」との点については、前記三の①③④にその旨の記載があり、少くともその年数については、約一三年間が真実であって右各記載は真実に反し、

(三)  本件追悼文の執筆ないし発表にあたって、被告は、原告に面談し或いはそれに代る適当な方法をとるなどの努力を怠り、又、同尼の財産状態の調査等も不十分であったから、この点において軽率であったことは否定できず、

(四)  原告としては、同尼を冷たく追い出したと宗教界の人々に受け取られるならば、宗教家としての節操を疑われ信用と社会的地位を失墜しかねないものであった と認めるのが相当であるが、他方

(五)  被告の本件追悼文執筆の動機は、尼僧の地位の低さ等に対する公憤など、学者或いは宗教家としての良心から発したところにあり、被告が執筆当時原告の氏名さえ知らず、また、原告の反論後本件「さんげ」誌の頒布が中止されたことなどから、被告としてはその目的が、原告を特定して中傷非難する意図でなかったと認めるのが相当であり、

(六)  本件追悼文の内容についていえば、桜が盛大な得度式をあげたことや小笠原が由緒ある寺の跡継ぎに推されていたことなど、柿沼尼の心配が杞憂であるとしてもそれをいちがいに責められない事情があり、そのような心情に陥りやすい尼僧の地位の向上を願うことは関係者として当然のことであって、又、そのために同尼の心境を伝えることは直ちに原告に対する直接的な非難と結びつくものではなく、

(七)  原告は、本件追悼文の要旨の紹介とともにそれに対する反論を本件追悼文の頒布された以上に広範囲にわたって自ら発表し、それによって一層自己の名誉を傷つける結果になるともいえ、原告の名誉の失墜は必ずしも被告の行為のみに基くとはいえないばかりか、本件反論文によって原告の真意は尽され名誉が回復された面のあることも否定できない。

(八)  以上のとおり、本件追悼文の発表は、原告の名誉を間接的にせよ多少傷つけ、又そのことについて被告に事実確認の不十分と表現の不適切という点で過失もあり、原告がこれによって前記のような感情をいだいたことは、いちがいに無視できないものがあるが、被告としても原告を意識的に害する意思はなく、本件追悼文の内容も尼僧の地位という面からみて全く的外れの指摘をしたものではなく、表現上も、原告個人の名誉を著しく毀損したものではなく、原告の本件反論文発表に至る一連の経過を考え合わせると、被告の本件追悼文発表の行為は、違法性、故意過失、損害のいずれの面からみてもあまり悪質のものとはいえず、そのもの自体による損害は比較的軽微と考えられるので謝罪広告を要する程度のものであったとは認め難い。

九  本件反論文の内容等について

前記認定の本件反論文中に、被告主張の前記反訴請求原因二の1から6までの被告を名指した記載があることは当事者間に争いがなく、また、≪証拠省略≫によれば、被告は本件反論文が反論の程度を超えたものと感じた事実が認められ、右認定を覆すにたりる証拠はない。

一〇  本件反論文発表に関する判断

右1から6までの各記載は、いずれもそれ自体非常に激しい表現で被告を攻撃したものであり、又、≪証拠省略≫によって本件反論文全体を検討しても、本件反論文全体が右1から6までの各記載と十分調和しうるような激しい調子のものであって、右1から6までの部分は単なる表現上のささいな行き過ぎではなく、その発表は被告の利益を害した違法なものと言わざるをえない。

しかし、前認定のとおり本件反論文は、本件追悼文に端を発するものであるところ、本件追悼文も前述したようにその表現が適切でなく、発表に至るいきさつも原告を刺激するものがあり、事実を歪曲して原告を非難したと受け取られる可能性のあるもので、これによって原告としては自己の信用ないし社会的地位を失墜させられたとして、反論を試みたのであって、被告の側にも本件反論文を誘発した点で責任の一端があり、さらに、前記認定のように、被告としては、反論として行き過ぎだという感覚で本件反論文を受けとめたに過ぎない。このように相手方によって自己の名誉が毀損されたため、これに対する反論をして、これが本件のように若干過激に走ったとしても、このような場合は、これに対し謝罪広告を命ずるのは相当でない。

一一  よって、原告の本訴請求および被告の反訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条の規定を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岡田辰雄 裁判官 三井哲夫 高野昭夫)

〈以下省略〉

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